2026/07/13

パッケージツアーでバルカン7カ国を巡った(その4)コソボ

北マケドニアのスコビエ市内を観光後、コソボの首都、プリシュティナに行きました。90キロしか離れていないところで、昼前につきました。

レストランに付近は、街路樹に植えられているリンデンの良い香りが一面に漂っていました。

コソボ共和国について

人口160万人、一人あたりGDP(PPPベース)12千ドル 共和制、首都プリシュティナ。民族構成はアルバニア人92%、セルビア人4%、ほかボシュニャク人、ゴーラ人、トルコ人、ロマ、公用語はアルバニア語、セルビア語

アルバニア人住民の大半がイスラム教を信仰していますが、ローマ・カトリック信者も存在します。またセルビア人住民はセルビア正教を信仰しています。

アドリア盆地に沿ったカルパチア盆地とディナル・アルプス山脈がクロアチアの地形の大部分を成していて、クロアチアの53.42%は海抜200m以下の低地で覆われています。大半は温暖で湿潤であって、ケッペンの気候区分によって亜寒帯湿潤気候(Dfb)に分類されます。主要産業は農業で、土地が肥沃な盆地部では大麦、小麦、トウモロコシ、タバコが生産され、また鉱物資源が豊かで、トレプチャの亜鉛鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇るのですが、ヨーロッパの最貧国の1つだそうです。通貨はユーロ (€)(EUR)

この国(地域)の簡単な歴史

コソボは、セルビアとアルバニア双方にとって歴史的・文化的に重要な地域であり、その帰属をめぐる対立が長年続いた結果、2008年に独立した比較的新しい国です。

・中世(12~14世紀)には中世セルビア王国の政治・宗教の中心地として栄え、多くのセルビア正教会の修道院や教会が建てられ、今でも多く残っておりセルビア人にとっては「聖地」ともいえます。

・1389年に「コソボの戦い」でセルビア軍がオスマン帝国に敗北し、その後約500年間オスマン帝国の支配を受けます。この時代にアルバニア系住民が増え、イスラム教も広まりました。

・1913年のバルカン戦争でセルビアがコソボを獲得し、その後はユーゴスラビア王国の一部となりました。第二次世界大戦後は、社会主義ユーゴスラビアのセルビア共和国に属する自治州となります。

(コソボ紛争)ユーゴスラビア崩壊後、アルバニア系住民の独立要求が強まり、1998~1999年にセルビア治安部隊との武力衝突が発生しました。NATOによる空爆の後、紛争は終結し、国連による暫定統治が始まりました。

・2008年2月17日、コソボはセルビアからの独立を宣言、日本は2008年3月にコソボを国家承認しています。現在では100か国以上が独立を承認していますが、セルビアは独立を認めておらず、この問題は現在も続いています。非承認国はセルビアのほか、ロシア、中国、スペイン、ルーマニア、ギリシャ、キプロスなどがあります。

悲惨な歴史を感じさせない街のたたずまい

こういう国ですから、紛争の傷跡がなまなましく残り、市内には緊張が残っているかと思ったのですが、何事もなかったかのように、近代的なビルが立ち並んでおり、市民もゆったりとしているように見えました。通りすがりの観光客にはそれ以上うかがい知れませんが。
紛争時にドイツへ疎開した人がおおかったようで、そのままの人も多く、コソボ平均年齢28歳、失業30%もあって汚職が酷いという話も聞きました。 



道路の表示は「マザーテレサ通り」、歩行者天国になっており、その先にはマザーテレサスクエアがあり、銅像が鎮座しています。
マザーテレサは北マケドニア共和国のスコピエ出身ですが、当時は北マケドニアもコソボなども建国されておらず、人種的にはアルバニア系であったことから、東欧バルカン各地で敬慕されているようです。


スカンデルベグ広場とスカンデルベルグ像、中世アルバニアの君主でトルコと戦ったアルバニア民族の英雄、うしろは政府ビルのようです。右の写真は多分ホテル。


左は、バザールモスク(チャルシアモスク)、右はコソボ議会です。

余談みたいなものですが、町を出る時、ガイドさんが、ビル・クリントン通りなんてのを指さしていました。コソボ紛争のとき、NATOを動かしてセルビアを爆撃、紛争解決に導いてくれた恩義を感じてのことだそうです。

グラチャニツア修道院

中心部から約8キロはなれたところ、静かな村の一角にあります。

ビザンチン・ロマネスク様式が融合したセルビア正教会の4つの修道院と教会堂がユネスコ世界遺産となっっており、そのひとつがここ、グラチャニツァ修道院です。
(他の3つは、後ほど行くデチャニ修道院、リェヴィシャの聖母教会、および行程にははいっていないペーチ総主教区修道院、いずれも危機遺産リストにも搭載されています。)

14世紀初頭に建てられた、典型的なセルボ・ビザンチン様式の傑作とのことで、交差するドームが美しい外観と、壁面を埋め尽くす見事なフレスコ画で知られています。


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中は撮影禁止、入口に右のような表示がありました。www.blagofund.orgを覗けばフレスコ画のコレクションが見られるとのこと、早速アクセス、うち1枚を拝借したのが右の写真です。



教会の周辺は農具のお店があったりするのどかな田舎町です。





デチャニ修道院

このあと、100キロほど離れた郊外にあるデチャニ修道院に向かいます。
1327年から35年にかけて建設された、バルカン半島最大級の中世修道院で、ロマネスク様式の外観と、内部に描かれた数多くのビザンチン様式のフレスコ画が特徴とのことで、これもグラチャニツア修道院とともに、世界遺産を構成しています。

説明によると、「モンテネグロやアルバニア国境に近いプロクレティエ山脈の麓に位置し、クリの森の中に石垣を巡らせた要塞修道院となっている」とのことですが、そもそも修道院に通じる道路にバリケードがあり、更に入口付近では兵隊が常駐、荷物検査を受けるだけでなく、パスポートを預けさせられました。

この国は9割以上をアルバニア人が占めており、特に周辺一体はアルバニア人の居住区、セルビアの遺産であるこの施設がテロの被害にあわないように、NATO中心の国際平和維持部隊(KFOR)が厳重な警備を強いているわけです。パスポートを預けた兵士はブルガリアから来ていて、冬は寒くて辛かったと言っていました。


警備をしている入口付近の撮影は禁止でしたが、石垣の中は建物内も含めて撮影も自由です。
石垣は140×110mほどの楕円形で、壁に沿って僧院・塔・食堂・キッチン・修道院長室などが弧を描いて連なっており、中央にカトリコン(修道院の中央聖堂)であるフリスタ・パントクラトラ聖堂(ハリストス昇天聖堂)がたたずんでいます。

古びた門をくぐると、空間が広がります。







撮影自由なだけでなく、「ここ触るな」といった表示や防護カバーもなく、説明してくれた僧に大丈夫かと聞いたら、昔からそうなんだとのこと。そりゃそうですけど。


僧院が細長く伸びていますが、あんまり住んでいないようです。冬は雪が積もるんでしょう、雪かきスコップがおかれていました。


食堂の前には自販機が並びます。生卵なんかが売られていて、僧院に住んでいる人や敬語の兵士のためのもののようです。でも10個程度の卵パックが5ユーロ(約1000円)、足元見てぼったくっていません? 左の写真は何やら買って帰る非番の兵士。


プレズレンへ

このあと、60キロほど離れたプリズレンを目指し、平原を進みます。プレズレンのホテル周辺はビストリツァ川に隔てられ場所にあり、あたりは日本の温泉を思い出させるような風情です。見上げるとモスクがあったりして、別の風景になりますが。




カトリック大聖堂とマザーテレサミュージアム

朝一番に訪れたのは、鐘楼が特徴的なカトリック大聖堂、ホテルのそばにあり、モスクや正教会の多いこの地では唯一のカトリック教会だそうで、ちょうど信者さんたちが礼拝していました。入口のプレートによると4-5世紀、13-14世紀、19-20世紀と、再建修復が繰り返されているようです。

そのお隣に、マザーテレサミュージアム。ほんとにあちこちにあります。入場料をとっていないので、北マケドニアもそうですが、この国、マザーテレサを出汁にして金儲けしているのではありません。



シナン・パシャ広場とシナン・パシャモスク

この広場周辺にはオスマン帝国時代の影響を受けた建物が多く、カフェのテラス席が並びます。モスクにはトルコ式の鉛筆型ミナレットがあり、青空にそびえています。





モスクの内部は綺麗に掃除されていて、厳かと言うより清々しい雰囲気です。



旧市街地周辺

左は、アラスタ・モスクのミナレット、16世紀オスマン時代につくられたものですが、再開発で取り壊され、尖塔だけが歴史的遺産として残されているものだそうです。

右の写真、および下2枚は、ガーズィ・メフメッド・パシャ・ハマム(トルコ式公衆浴場で、現在はアート展示や文化イベントの会場として使われており、修復をすすめられてますという言い訳の看板がたっていました。






そのすぐそばに、ガーズィ・メフメット・パシャ・モスク(Bajrakli Mosque)跡があります。記念板に、1878年にプリズレン連盟の議会が開かれた旨のことが書かれていますが、ほとんど廃墟になっています。







右は、昔の靴屋さんのショーウィンドウ、もちろん今はやっていません



リェヴィシャ生神女教会

生神女、ショウシンジョと読み、東方正教会(ギリシャ正教やロシア正教など)において、イエス・キリストの母である聖母マリアを指す尊称です。

グラチャニツア修道院、デチャニ修道院とともに、「コソボの中世建造物群」の一つとして世界遺産に登録されています。

12世紀のセルビア正教会聖堂ですが、14世紀はじめに改装され、説明によりますと、「教会堂の中心部はビザンツ様式で、四角形の平面プランの中に十字形を入れ込んだ内接十字式のクロス・ドーム・バシリカで、中央の大ドームと四隅に小ドームを掲げている」ものです。

内部はフレスコ画で覆われており、聖書の場面やイエス、マリア、預言者、使徒、聖人らのほか、セルビア王国の国王や大主教の姿も見られるのだそうです。

15世紀オスマン帝国の支配下に入るとモスクに改修され、フレスコ画の一部は破壊されたり漆喰で覆われたりしました。1912年にふたたび教会堂に戻り、第2次世界大戦後に修復が行われましたが、フレスコ画の70%は失われています。更にコソボ紛争後、アルバニア系住民による報復の対象となり、2004年のコソボ暴動では放火、略奪、破壊に被害を受けるなどしたため、現在は施錠され、厳重に警戒されています。つい最近までは鉄条網でおおわれていたみたいです。もうズタズタ、気息奄々ですね。内部は見られませんでしたが、外観だけでも美しい。








午後は、北マケドニアに戻り、オフリドを訪問します。(その3)の末尾をご参照ください。


読んでくださりありがとうございました。普段から健康に気を配られて、機会をみつけ元気に旅行に出られますように。

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